Tommy february⁶ (トミー・フェブラリー)については “Biography of Tommy february⁶” で扱っているので、詳しくはそちらをご覧ください。
Biography of the brilliant green
Prologue
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the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)はご存じ、奥田俊作、松井亮、川瀬智子の3人からなる、日本屈指の人気ロックバンドです。the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)のルーツは奥田俊作と松井亮の中学生時代にまでさかのぼります。
the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)のリーダーを務める奥田俊作が音楽を始めたきっかけは、中学生時代に友人が組んでいたバンドによるものです。それはRed Warriorsのコピーバンドで、彼はそこでベースを務めました。ただ、音楽に対する確信を持ったのはもう少しさかのぼって、1983年2月14日のこととなります。当時小学5年生だった彼は、同じクラスで思いを寄せていた女の子からバレンタインチョコレートをもらえたことが、音楽に対する大きな自信につながったと、後に語っています。
(もちろん、その女の子は川瀬智子ではありません。)
the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)でギターを務める松井亮も中学2年生のときから友人とバンドを組んでいました。このバンドは主にSEX PISTOLS、CRUSHやStrayCatsを幅広くコピーしていたバンドで、彼はボーカルを務めていました。彼はこのバンドでギターを教わり、後にギター一筋で活動していくようになります。
奥田俊作と松井亮の運命的な出会いはちょうどこの頃でした。それは2人が中学2年生のときで、地元京都の隣同士の中学校に通っていた2人は、共通の友人を通じて知り合いました。この出会いが後にミリオンヒットを生むビックバンドを築き上げるとは誰が予想したことでしょうか。
1987年4月、奥田俊作と松井亮は同じ京都市内の高校へと進学しました。松井亮は軽音楽部に所属しました。奥田俊作はなぜかアメリカンフットボール部に所属しましたが、文化祭のときには松井亮のバンドに参加していました。この頃はSHEENA & THE ROKKETSやTHE BEATLESをアレンジしてコピーしていました。
その3年後、当時18歳になっていた奥田俊作はよりいっそう音楽への関心が高まっていて、高校卒業後、音楽系の専門学校へ進学しました。当時、彼はハウスブラックやファンクなどのジャンルに関心を持ってました。一方、松井亮はデザイン系の専門学校へ進学しました。彼らは進学先が別々ということもあって、しばらくの間、会うことはありませんでした。
疎遠になっていた2人が再会するのはその2年後のことになります。当時20歳になっていた奥田俊作が高校時代の女友達とバンドを組むことになりました。このとき、松井亮をバンドのメンバーとして招きました。これは奥田俊作と松井亮が本格的に活動したバンドです。しかし、このバンドはthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)ではありませんし、この女性も川瀬智子ではありません。彼女の出現はもう少し後のことです。
彼らは自分たちがやりたい音楽を追求するために、初めてオリジナル曲を作りました。収録は奥田俊作の自宅で行われました。そして、デモンストレーションテープも積極的に作られました。この頃の楽曲は洋楽志向でしたが、詞は日本語詞でした。このバンドが後に結成されることとなるthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)に与えている影響は少なくありません。the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)の数ある名曲のうちの1つとして知られる‘MAGIC PLACE’は、実はこの頃に作られた曲です。
一方、the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)でボーカルを務める川瀬智子はというと、音楽への関心は幼少の頃からあったようです。保育園に通っていたころは友人とPink Ladyを歌ったり、ときには家の前やベランダで歌ったりしていました。彼女はキリスト教会付属のカトリック系の保育園に通っていました。教会の日曜学校にも通っていて、中学生時代までそこで聖歌隊にも所属していました。小学生時代の得意教科は国語で、よくグリム童話やアンデルセン全集を繰り返して読んでいたそうです。彼女の詞は、ファンタジックで中世的な雰囲気を漂わせていますが、そうした世界観はこの頃形成されていたのかもしれません。
当時、彼女は松田聖子が大のお気に入りでした。とりわけ、 ‘渚のバルコニー’ は保育園の頃から小学2年生の頃にかけて、聞き続けていました。
川瀬智子は星が好きなようで、ライブで星のステッキを持ったり、作品のジャケットにたくさんの星が描かれていたりしています。直接関係ないのでしょうが、小学生のとき七夕になると、町内会で流れ星を見に行っていました。
小学校ではクラブ活動で放送部やコーラス部に所属していました。ピアノも習っていたので、当時、歌だけでなく音楽に対する礎が既に築かれていたようです。小学校高学年のときにはちょうどRick Astleyなどが流行っていて、よく聴いていたそうです。ちなみに、彼女が初めて買った英語詞の楽曲は彼の楽曲だそうです。これが15年後の彼女の人生を大きく変えるとは、誰が思ったことでしょう。
中学時代にはファッション関係の仕事や漫画家に憧れていました。時折、洋服のコーディネートを色つきでノートに記したり、漫画のストーリーを考えたりもしたそうです。15年後、彼女はプロデュースを行うことになりますが、このときの経験が礎になっているようです。彼女は本質的にストーリーやそこに登場するキャラクターを作り上げるといったことが本当に好きなのでしょう。
川瀬智子がより深く音楽活動に関与し始めたのは中学2年生の頃からで、当時から既に大学生のバンドに所属していました。彼女の母親がFrance GallやVanessa Paradisなどのフレンチロリータを好んで聴いていたので、彼女は主にこうした音楽にふれていました。しかし、この頃にThe Flipper’s Guitarが登場し、彼女はこれに夢中になっていきました。
高校1年生のときには芸大生や音大生による、The Flipper’s Guitarやpizzicato fiveのコピーバンドでコーラスをしていました。特に、彼女のThe Flipper’s Guitarへの敬愛は激しいもので、高校時代、自分の上履きにメンバーの名前である “小沢” と記名していたほどです。
また、高校2年生のときの学園祭では、飛び入りで他クラスの催しのファッションショーに参加し、パティオで山本リンダの ‘狙いうち’ などをメドレーで歌ったり、踊ったりもしました。彼女がこれだけ多くの人の前で歌ったのは初めてで、彼女はこれによって先輩後輩を問わず多くのファンを作りました。当時から、多くの人を引き付ける不思議な魅力を持っていたのかもしれません。
高校3年生の夏休みから、彼女は地元のセレクトショップでアルバイトを始めました。そして、彼女の抜きん出たファッションセンスが認められ、なんと高校卒業後にはその店の店長を任されるほどになりました。彼女のファッションセンスは確かなもので、のちに数多くのファッション雑誌の表紙を飾ることになります。
高校を卒業してから1年半の月日がたち、ついにその瞬間が訪れます。出逢いです。1994年の夏に、川瀬智子と、奥田俊作と松井亮は知り合いました。ことの発端は、川瀬智子が所属していたバンドが楽器店にメンバーの募集の貼り紙を出したことです。貼り紙には “The Flipper’s Guitar、pizzicato fiveを好みます” と記述していたのですが、これが奥田俊作と松井亮の目に留まったのです。彼らは既に自分たちのバンドを持っていましたが、京都でそうしたバンドに関心を持っている人は珍しいと思い、実際に会ってみることにしました。川瀬智子がこの頃に所属していたバンドでは、The Flipper’s Guitarやpizzicato fiveに加え、彼女の母親がよく聴いていて親しんでいたVanessa Paradisなどのフレンチポップも歌っていました。この頃の影響はthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)結成後にも引き継がれることになります。曲調こそ違いますが‘Bye Bye Mr. Mug’などの初期の作品での川瀬智子の歌い方がVanessa Paradisの影響を強く受けたものであることがわかるはずです。
奥田俊作と松井亮は、川瀬智子のバンドのライブを京都市内のライブハウスで見せてもらうことになりました。彼女が歌うTHE JESUS AND MARY CHAINの ‘Sometimes Always’ やThe Rolling Stonesの ‘As Tears Go By’ を聴いて、奥田俊作と松井亮は自分たちが求めていたものは “これだ” と言うことに気づかされたのです。彼らはこのライブを機に、川瀬智子をボーカルとして招くことを決意しました。そして、半年もの月日を投じて、川瀬智子をうなずかせるための曲を完成させました。1995年3月、彼女をスカウトする形で、the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)が誕生しました。
運命のメジャーデビュー
the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)が結成され、早速、デモンストレーションテープの制作が始まりました。川瀬智子が最初に歌った曲はThe Cardigansの ‘Rise & Shine’ で、これが彼女にとって初めてのレコーディングとなりました。彼女が初めて書いた詞は‘love baby’です。‘MISTER MOON’や‘sunny mood shirt’などもこの頃の作品です。当時の曲は英語詞ですが、これは奥田俊作と松井亮が英語詞で作るように川瀬智子に頼んだためです。
川瀬智子の愛称の “Tommy” もこの頃に付けられたもので、the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)結成直後、奥田俊作が川瀬智子の家のポストに入れたデモンストレーションテープに “トミー用” と書かれていたことがきっかけです。しかし、会うときには “川瀬さん” と呼んでいたようです。このTommyの愛称は男性の愛称にもかかわらず、その後、メンバーだけではなく、多くのファンからも愛用されることになります。
その頃、奥田俊作と松井亮は以前から活動していたバンドも続けていました。2年ほどレコード会社とテープのやり取りをしていて、契約も間近でしたが、彼らはthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)に集中するために1995年4月に、京都市内の吉野家でそれまで続けていたバンドの解散を宣言しました。
その後、the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)はオリジナル曲を作り、デモンストレーションテープを作成する日々が続きます。Bye Bye Mr. Mugはこの頃に作られた曲です。当時、the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)は、基本的にライブ活動はしていませんでした。しかし、川瀬智子の友人のDJにライブに出ないかと誘われ、初めてのライブを敢行することになりました。このライブで、お客さんのノリが非常に良かったため、別のライブにも出演することになりました。この2回目のライブこそが運命を大きく変えるイベントとなりました。結成から2ヵ月後の1995年5月に開催されたギターポップのイベントで、Sony Recordsのスカウトマンにスカウトされました。音楽業界にデモンストレーションテープが渡ると、その新人離れしたでき栄えと、洋楽志向の楽曲と川瀬智子の澄んだ歌声の融合によるまったく新鮮なサウンドが話題を呼びました。そして、2年間の育成を受けた後に、笹路正徳プロデューサーの協力があって、1997年の春に正式にSony Recordsとの契約にこぎ着けました。
1997年7月には‘GREEN WOOD DIARY’が、演劇集団キャラメルボックスの夏公演 “嵐になるまで待って” のエンディングテーマ曲として起用されました。
1997年8月には音楽雑誌 “H” 誌面上で、川瀬智子がイタリアのファッションブランド “Fiorucci” (フィオルッチ)のモデルに起用されました。
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1997年9月21日には1st single “Bye Bye Mr. Mug”で、ついに念願のメジャーデビューを果たしました。このシングルは全曲英語詞で、新人バンドにもかかわらず、楽曲・詞ともに完成度の高い作品になりました。デビュー前にCDショップで配布されたフリーCDは、高感度なユーザーを中心に評判になり、わずか数日でなくなりました。タイトル曲のBye Bye Mr. Mugは福岡のCROSS FMの9月度へビーローテーション、浜松のK-Mixと富山のFMとやまの10月度パワープレイに選出され、テレビ神奈川の “SAKUSAKUモーニングコール” のエンディングテーマソングに起用されました。また、名古屋のZIP FMではチャート13位 (邦楽1位)まで上昇し、東京のInterFMなどでも大量にオンエアされました。
1997年10月にはMTVの “Break Down” に川瀬智子がレギュラー出演し始めました。
1997年11月にはテレビ北海道の “まる音デラックス” に、川瀬智子がレギュラー出演し始めました。
1997年12月1日には2nd single “goodbye and good luck”がリリースされました。このシングルも全曲英語詞となっています。カップリング曲のMISTER MOONは札幌のNorth Waveでも29位まで上昇しました。また、1998年3月にはカップリング曲がテレビ朝日系列のドラマ “愛し過ぎなくてよかった” の挿入歌として起用されました。
転機の訪れ
1998年5月13日には3rd single “There will be love there –愛のある場所–”がリリースされました。タイトル曲の‘There will be love there –愛のある場所–’はTBS系列のドラマ “ラブアゲイン” の主題歌に起用されました。このシングルはthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)初のヒット作です。オリコンシングル週間ランキングでは初登場14位でした。その後、ロングセラー化し、1998年6月29日にはついに1位を初めて獲得し、ダブルプラチナを超える大ヒットとなりました。この成功によってthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)は一躍人気アーティストの仲間入りを果たしました。
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the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)の認知度は一気に高まりました。この頃からthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)は “ブリグリ” と呼ばれ、親しまれるようになりました。川瀬智子は当初 “ブリグリ” という呼び名には少し抵抗があったようですが、今ではすっかりメンバーの間でも定着しています。ちなみに、この “ブリグリ” という呼び名は演劇集団キャラメルボックスのプロデューサーの加藤昌史が最初に名づけたそうです。
1998年8月26日には4th single “冷たい花”がリリースされました。タイトル曲の‘冷たい花’はTBS系列の “CDTV” のオープニングテーマソングにも起用され、オリコンシングル週間ランキングでは初登場1位に輝きました。the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)を一発屋で終わらせず、the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)のイメージを定着させた重要な曲です。
1998年9月19日には待望の1st album “the brilliant green”がリリースされました。このアルバムは、“There will be love there –愛のある場所–”のヒット後ということもあって、非常に注目されていましたが、予想通り素晴らしいヒットを記録しました。オリコンアルバム週間ランキングでは初登場2位を記録し、しかも、驚くべきことに発売後、わずか2日間で100万枚を売り、最終的に150万枚をセールスしました。あまりに売れすぎたため、川瀬智子が “もう買わないでください” と言う逆プロモーションは、さらなる注目を集めました。その素晴らしい結果の反面、曲作りの日程が非常に押していて、アルバム制作はとても大変だったようです。中途半端なものを作りたくないという心意気から、川瀬智子は1日中部屋にこもって、詞を書き上げていたそうです。
1998年10月にはこのアルバムが香港や台湾、アジアの数カ国でもリリースされることになりました。また、同じころ、J-WAVEの “川瀬智子のACROSS THE VIEW” の放送が始まりました。
そして、1998年10月6日にはライブ “SMEJ TOKYO SHOW CASE LIVE” が開催されました。
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1998年11月3日の札幌のPenny Lane 24から21日の渋谷のClub Quattroに及ぶ、全国7ヶ所のライブハウスを回るアルバムのライブツアーが始まりました。その名も “the brilliant green first tour There will be live there” です。しかも正確には “love” の “o” を “i” に訂正した表記になっています。このツアーのチケットは各会場とも3分前後で売り切れとなる盛況振りでした。川瀬智子がうさぎの被り物をして行ったら、観客が引いたという逸話もあります。これは当時の川瀬智子のイメージとはかけ離れていたためのようです。当時は曲の認知度は高かったのですが、彼女のキャラクターの認知度は十分高まっていませんでした。また、札幌のライブでは、川瀬智子は壁や床を蹴り、最後には “ギャー” と叫んで、キレたそうです。これは彼女が盛り上がる曲と判断していたMISTER MOONで、みんながきょとんとしていたことに起因します。当時のthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)はThere will be love there –愛のある場所–のイメージが強すぎたようで、以後のリリース曲はThere will be love there –愛のある場所–のイメージを自ら打ち砕いていきます。
1999年1月27日には5th single “そのスピードで”がリリースされました。タイトル曲の‘そのスピードで’はフジテレビ系列のドラマ “オーバータイム” の主題歌に起用されました。このシングルもヒットし、オリコンシングル週間ランキングでは、シングルとして3回連続1位に輝きました。
1999年3月1日には1st video clip “the brilliant green clips”がリリースされました。
1999年3月10日には6th single “長いため息のように”がリリースされました。セールスは素晴らしい成績を収めた“There will be love there –愛のある場所–”や“そのスピードで”ほどではありませんでしたが、それらの成功から自立するいいチャンスになったと考えられます。
1999年4月からは、TOKYO FMで “ブリグリ5” の放送が開始され、メンバーがレギュラー出演し始めました。
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1999年4月18日–5月16日にかけては、再び全国ツアーが開催されました。名称も “the brilliant green 1999 Spring Tour There will be live there Vol.2” で、全国10ヶ所を回りました。このライブでは、新曲 “ブギー(CAN’T STOP CRYIN’)” 、 “アメリカ(愛の♥愛の星)” 、 “ターさんBaby (CALL MY NAME)” の3曲も披露されました。
このツアー後、ツアーとレコーディングの過密なスケジュールのために川瀬智子が体調を崩したと言われています。それ以来彼女は禁煙に踏み切り、次いで奥田俊作、遅れて松井亮も禁煙に成功しました。川瀬智子はこの禁煙以降、健康オタクにもなっていきます。川瀬智子はナチュラルミネラルウォーターの “volvic” を愛飲していることでも有名で、水を1日2リットル飲むようにしているそうです。
1999年7月24日にはライブ “LUST FOR LIVE act.2” に出演しました。
1999年7月25日にはライブ “MEET THE WORLD BEAT ’99” に出演しました。
1999年7月29日にはライブ “旭川ライブジャム99 in 北彩都” に出演しました。
1999年8月18日には7th single “愛の♥愛の星”がリリースされました。今回はタイトル曲、カップリング曲ともタイアップを果たしており、当時の人気ぶりを示しています。また、両曲とも明るいナンバーで、従来の曲とはまた違った雰囲気を出し始めました。
1999年8月29日にはライブ “佐久音楽祭” に出演しました。
1999年9月8日には2nd album “TERRA2001”がリリースされました。しかも今回は初めてのLP(アナログ盤)もリリースされました。セールスも予想どおり好調で、オリコンアルバム週間ランキングでは初登場2位を記録しました。
1999年9月22日には8th single “CALL MY NAME”がリリースされました。収録曲はCALL MY NAMEの日本語版と英語版です。タイトル曲は “CALL MY NAME (JAPANESE VERSION)” で、カップリング曲は “CALL MY NAME (ENGLISH VERSION)” です。この英語版は2nd album “TERRA2001”に収録されているもので、今回はカップリングとしてリカットされています。日本語バージョンのリリースの背景にはNHKの “ポップジャム” エンディングテーマソングとしてのタイアップが絡んでいるようです。
![[Figure]](/img/fig-live-there-will-be-live-there-vol3.avif)
1999年11月19日の綾瀬市文化会館から翌年1月21日の松山市民会館大ホールまで3度目のライブツアー “the brilliant green There will be live there Vol.3 TERRA2001 TOUR” が開催されました。今回は初のホールツアーとなり、全国19ヶ所で20公演を開催しました。このライブではカバー曲としてMadonnaの ‘BEAUTIFUL STRANGER’ とThe Shocking Blueの ‘VENUS’ が披露されたほか、CD音源化される予定のない曲 ‘New bicycle (Jump Jump Jump)’ も披露されました。松井亮はツアー最終日までに、体重を58kgまで落とせなかったため、モヒカンヘアにされてしまいました。川瀬智子は禁煙後の初めてのツアーでしたので、禁煙を勧めていました。このときの盛況振りは、後にリリースされるライブ風ビデオ“SUPER TERRA2000”に収録されています。
ツアー中の1999年12月1日には9th single “BYE! MY BOY!”がリリースされました。タイトル曲の‘BYE! MY BOY!’は2nd album “TERRA2001”に収録されている同曲をリカットしてリリースしたものです。川瀬智子はデモテープをもらったときから、 “すごくいい、シングルでも行ける” と思ったそうです。リカットを前提にしたため、詞も英語詞ではなく、日本語詞にしたそうです。
2000年1月28日にはライブ “J-WAVE ACROSS THE VIEW LIVE 2000” に出演しました。
2000年4月1日には1999年11月19日–翌年1月21日に開催されたライブツアー “the brilliant green There will be live there Vol.3 TERRA2001 TOUR” のライブ風ビデオ“SUPER TERRA2000”がリリースされました。
2000年5月31日には記念すべき10th single “Hello Another Way –それぞれの場所–”がリリースされました。タイトル曲の‘Hello Another Way –それぞれの場所–’はJALの “2000 ACTIVE 北海道” のキャンペーンソングに起用されました。この頃はthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)が少し低迷しかけていた時期で、There will be love there –愛のある場所–の頃を意識したthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)らしさをだした楽曲です。この頃からthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)は低迷から立ち直り始めました。
2000年8月20日にはライブ “J-WAVE LIVE 2000 SUMMER” に出演しました。
2000年11月15日には11th single “angel song –イヴの鐘–”がリリースされました。タイトル曲の‘angel song –イヴの鐘–’は2000年10月からTBS系列で放送されたドラマ “真夏のメリークリスマス” の主題歌に起用されました。セールスも非常によくthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)を一時期の低迷から完全に立ち直らせました。
2001年1月1日には新世紀の始まりに相応しい、素晴らしい3rd album “Los Angeles”がリリースされました。しかも今回はLP(アナログ盤)とビデオクリップも同時リリースとなっています。
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2001年2月14日のZepp Fukuokaから2001年3月16日のAKASAKA Blitzまで、ライブツアー “the brilliant green 2001 tour There will be live there Vol.4 Los Angeles” が全国6ヶ所で7公演開催されました。リハーサル中に松井亮がギックリ腰になるなどのハプニングもありました。また、この公演後、新プロジェクト始動のため、the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)はしばらく活動を休止します。
2001年、アメリカのタイム誌の選ぶ世界のベスト10バンドに、日本からは唯一、the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)が選出され、U2などの世界の著名なバンドと肩を並べました。
川瀬智子の世界
2000年12月末にはメンバーとスタッフたちは打ち合わせを兼ねた温泉忘年会に行きました。そこではある重大なプロジェクトについて話し合われました。
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2001年6月14日からは、川瀬智子のソロプロジェクト “Tommy february⁶ (トミー・フェブラリー)” が始動しました。
バンドの再始動
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こうしてTommy february⁶ (トミー・フェブラリー)は封印され、川瀬智子はバンド活動に復帰した。
2002年2月はまだTommy february⁶ (トミー・フェブラリー)の活動期間中ですが、4月からthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)の再始動が決まっていたので、曲制作が始まりました。
2002年3月31日には翌日からのthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)の再始動を控え、ライブ “the brilliant green PREMIUM ACOUSTIC LIVE” が開催されました。
2002年4月1日には川瀬智子がバンドに復帰し、バンドが再始動しました。1年近くもバンドを離れていて、the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)の川瀬智子とはまた違ったキャラクターのTommy february⁶ (トミー・フェブラリー)を続けていた川瀬智子はthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)の雰囲気に戻るのに少し苦労したそうです。
2002年4月4日からは香港へ旅行に行きました。このときは本人たちの希望もあって、ジャグジー付きのスイートルームに泊まることができたそうです。
2002年4月24日には12th single “Forever to me ~終わりなき悲しみ~”がリリースされました。久々のバンド活動の再開となり、タイトル曲の‘Forever to me ~終わりなき悲しみ~’はテレビ朝日系列のドラマ “眠れぬ夜を抱いて” の主題歌に起用されました。楽曲もいかにもthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)らしい、ゴシックで少し暗い感じの曲に仕上がっています。
また、同日、昨年リリースされた“Los Angeles”のSACD盤もリリースされました。“Los Angeles”はマスタリングまでもが自分たちの手で行われていますし、でき具合も非常に良いので、こうしたメディアでぜひ聴いてみたいものです。
2002年5月9日には奥田俊作が作曲を手がけた、松田聖子の愛娘SAYAKAのデビュー曲“ever since”がリリースされました。ボーカルはthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)とは明らかに違っていますが、サウンドはまるっきりthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)の楽曲といった感じです。サビだけを聞いただけでは少しわかりづらいのですが、バックトラックを聴けば納得がいくと思います。楽曲の雰囲気は清涼感があふれる感じのポップスで、雰囲気的にはブレイクビーツのない‘Rainy days never stays’に近い感じのような気がします。
2002年6月10日–21日にかけて、ハワイに行きました。そこでは後にリリースされる13th single “Rainy days never stays”のジャケット写真と、Tommy february⁶ (トミー・フェブラリー)のフォトブック“Tommy february⁶ + HAWAII”の写真の撮影が行われました。
2002年7月31日には13th single “Rainy days never stays”がリリースされました。タイトル曲のRainy days never staysはブレイクビーツを取り入れた曲で、the brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)にしては珍しく、夏でありながら爽快な感じの曲に仕上がっています。この曲はそもそも2002年の冬にリリースする予定でしたが、Tommy february⁶ (トミー・フェブラリー)プロジェクトの延長に伴い、リリースもずれ込みました。
![[Figure]](/img/fig-live-jwave-2002.avif)
川瀬智子はこの頃のお気に入り、 “ハリー・ポッター” シリーズに登場するハーマイオニー・グレンジャーになりきって出演した。衣装も同作品の衣装に準えたもの
2002年8月10日にはJ-WAVE主催のライブ “J-WAVE LIVE 2000+2” に出演しました。
2002年10月9日には14th single “I’M SO SORRY BABY”がリリースされました。タイトル曲の‘I’M SO SORRY BABY’はTOSHIBAのau向け携帯電話A5301Tのコマーシャルソングに起用され、メンバーもコマーシャルに出演しました。
2002年10月27日には学園祭ライブ “大阪学院大学 the brilliant green ~岸辺祭コンサート~” 、2002年11月1日には学園祭ライブ “中央大学 the brilliant green concert 2002” 、翌月16日には学園祭ライブ “青山学院女子短期大学青山祭LIVE” で、それぞれ学園祭ライブが開催されました。ライブでは“THE WINTER ALBUM”に収録される‘Flowers’も披露されました。このときは既に“THE WINTER ALBUM”の制作期間に入っていて、ライブ終了後にレコーディングを行いました。
2002年12月4日には4th album “THE WINTER ALBUM”がリリースされました。2002年2月6日にはTommy february⁶ (トミー・フェブラリー)のアルバム“Tommy february⁶”を出したばかりで、この年2枚目のアルバムとなります。静かで落ち着いた曲が多く、作品としてのレベルが最も高いアルバムだと思います。2002年12月21日からはTommy february⁶ (トミー・フェブラリー)が再始動する予定でしたので、レコーディングは極めて過密なスケジュールとなりました。
2002年12月6日には奥田俊作がデザインしたLE MONT BLANC(モンブラン)というキャラクターのぬいぐるみが発売されました。ちなみにこのキャラクターはビジュアル本“Tommy february⁶ + HAWAII”にも描かれています。
2002年12月12日には奥田俊作が作曲を手がけた、松田聖子の愛娘SAYAKAの‘Believe again’が公開されました。個人的には‘ever since’よりもBelieve againのほうがthe brilliant green (ザ・ブリリアントグリーン)のサウンドが色濃く出ているような気がします。
閉ざされた扉
2002年12月21日からは、川瀬智子のソロプロジェクトTommy february⁶ (トミー・フェブラリー)が再始動しました。なお、4th album “THE WINTER ALBUM”のサポートライブに関してはこうした経緯もあり、残念ながら今のところ開催されていません。
Tommy february⁶ (トミー・フェブラリー)については “Biography of Tommy february⁶” のおかえりなさいで扱っているので、詳しくはそちらをご覧ください。
2003年5月26日からは、川瀬智子の新ソロプロジェクト “Tommy heavenly⁶ (トミー・ヘヴンリー)” が始動しました。
Tommy heavenly⁶ (トミー・ヘヴンリー)については “Biography of Tommy heavenly⁶” で扱っているので、詳しくはそちらをご覧ください。
2003年8月20日には奥田俊作が作曲したBelieve againがSAYAKAの“garden”に収録されました。
2003年10月28日には松井亮の新ソロプロジェクトmeister (マイスター)が始動しました。この日開催されたMark Gardenerのライブに出演し、2004年にリリースされる予定の新曲を披露しました。
2003年11月22日(いい夫婦の日)にはなんと、川瀬智子と奥田俊作が結婚しました。この2人については以前から、ファンの間で交際説が流れていました。長い交際期間を経て、ついにこの日、人生におけるパートナーになりました。一方、松井亮は2003年7月29日にシルバーアクセサリーのデザイナーの方と既に結婚しており、川瀬智子と奥田俊作の結婚報告と合わせて事実が公表されました。もちろんバンドも解散はありえないことも強調され、これからも末永く音楽活動に徹してくれることでしょう。